LOGIN朝倉さんは、私の手元のノートに視線を落とした。
「書いてくださっていたんですか」
「あ、はい」
私は少しだけ照れた。
「展示を見ながら、忘れないうちにと思って」
「嬉しいです」
朝倉さんはそう言ってから、近づきすぎない距離で隣の壁を見る。
そこには『余白の席』の写真があった。
「その写真の前に、長くいらっしゃいましたね」
「はい」
「気になりましたか」
「気になったというか……好きでした」
前より、その言葉を言うのが怖くない。
好きでした。
私はそのまま続けた。
「丸いテーブルと、二脚目の椅子が写っていて」
「はい」
「私の部屋にも、丸いテーブルと椅子が二脚あるんです」
「そうなんですね」
「一人暮らしなのに、二脚にしたんです」
話しながら、少しだけ笑う。
朝倉さんは、私の手元のノートに視線を落とした。「書いてくださっていたんですか」「あ、はい」 私は少しだけ照れた。「展示を見ながら、忘れないうちにと思って」「嬉しいです」 朝倉さんはそう言ってから、近づきすぎない距離で隣の壁を見る。 そこには『余白の席』の写真があった。「その写真の前に、長くいらっしゃいましたね」「はい」「気になりましたか」「気になったというか……好きでした」 前より、その言葉を言うのが怖くない。 好きでした。 私はそのまま続けた。「丸いテーブルと、二脚目の椅子が写っていて」「はい」「私の部屋にも、丸いテーブルと椅子が二脚あるんです」「そうなんですね」「一人暮らしなのに、二脚にしたんです」 話しながら、少しだけ笑う。 初めて家具を選んだ時のことを思い出した。 一脚だけにする選択もあった。 でも私は、二脚にした。 誰かが来るかもしれないと思ったから。 誰かを待ち続けるためではなく、自分の部屋を外へ開いておくために。「最初は、少し変かなと思ったんです」「一人暮らしで二脚?」「はい。でも、友達が来てくれて、そこに座ってくれて」「はい」「今は、その椅子があってよかったと思っています」 朝倉さんは、静かに頷いた。 余計な合いの手を入れず、言葉を待ってくれる。 だから私は、もう少し話せた。「空いている椅子って、前は寂しいものだと思っていました。でも今は、違う気がして」「どう違いましたか」 私は写真を見た。 夕方の丸いテーブル。 湯気の立つカップ。 畳まれた布が置かれた椅子。「誰かが座ってもいいし、座ら
二階へ上がる階段は、前に来た時と同じだった。 けれど、今日は少しだけ違って見える。 白い壁に貼られた小さな案内。 階段の途中に置かれた、展示名の書かれた紙。『小さな器と暮らしの写真展』 その文字を見ながら一段ずつ上がる。 胸は少し速く鳴っていた。 朝倉さんに会えるかもしれない。 それは、確かにある。 でも、それだけではない。 器を見る。 写真を見る。 自分の生活の中にあるものを、少し違う角度から見てみる。 今日はそのために来た。 そう思い直すと、足元が少し落ち着いた。◇◇◇◇ 展示室に入ると、前回とは空気が少し違っていた。 白い壁に写真が並び、その下や横に、小さな器が置かれている。 木の台。 淡い布。 湯のみ。 小皿。 深い鉢。 どれも、飾り物というより、誰かの生活の中から少しだけ持ってこられたように見えた。 受付にいた書店員さんが、私に気づいて微笑んだ。「いらっしゃいませ」「こんにちは」「どうぞ、ごゆっくり」 私は軽く頭を下げて、最初の展示へ向かった。 そこには、朝のテーブルを写した写真があった。 窓から光が入り、白い皿にトーストがのっている。 隣には小さなカップ。 テーブルの端に、読みかけの本。 特別な料理ではない。 豪華な朝食でもない。 でも、誰かがちゃんと朝を始めようとしている写真だった。 横には、写真に写っているものと同じらしい小さな白い皿が置かれていた。 手作りなのか、縁が少しだけ揺れている。 私はその皿をじっと見た。 完璧な丸ではない。 でも、そこがいいと思った。 毎日使うものが、少しだけ不揃いでいい
展示の日の朝、私は少し早く目が覚めた。 カーテンの向こうが明るい。 薄い青の布を開けると、柔らかい光が部屋に入ってきた。 窓辺には水色の花瓶。 淡いオレンジの花は少ししおれかけていたけれど、まだきれいだった。 その隣にはクラゲ。 いつもの景色。 でも今日は、少しだけ特別に見える。 私は花瓶の水を替え、茎の先を整えた。 それから、丸いテーブルに朝食を並べる。 トースト。 ヨーグルト。 目玉焼き。 グレーのマグカップに紅茶。 卵の焼き加減は、前より少し上手くなっている。 黄身は真ん中ではないけれど、焦げていない。 私はそれを見て、小さく笑った。 少しずつ上手くなる。 料理も。 生活も。 楽しみにすることも。 急に完璧にならなくていい。 そう思いながら手を合わせた。「いただきます」◇◇◇◇ 朝食のあと、私は部屋を軽く片づけた。 昨日のうちに選んでおいた服をハンガーから外す。 淡いグレーのブラウス。 紺のスカート。 小さなイヤリング。 鏡の前で着替えると、胸の奥が少し落ち着かなくなった。 変ではないと思う。 でも、それを誰かに確認したくなる気持ちが少しだけ顔を出す。 似合っているかな。 派手ではないかな。 頑張りすぎて見えないかな。 そこまで考えて、私は鏡の中の自分に向かって小さく首を振った。 今日は、誰かに評価してもらうための服ではない。 私がこの服で行きたいと思った。 それでいい。 私はイヤリングをつけた。 小さな光が耳元で揺れる。 それだけで、顔が少し明るく見えた。 スマホを手に取る。
展示の日が近づくにつれて、私は少しだけそわそわしていた。 仕事をしている時はいつも通りなのに、ふとした瞬間に思い出す。 器と写真展。 書店の二階。 朝倉さんの名前。 水色の花瓶を買った日にもらったチラシ。 それはノートに挟んである。 何度も見る必要はないのに、夜になるとつい開いてしまう。 開催日も、時間も、もう覚えている。 それでも確認したくなる。 そういう自分が少し恥ずかしくて、でも嫌ではなかった。 私は丸いテーブルに肘をつき、ノートの間からチラシを取り出した。 白地に、器と光の写真。 派手ではない。 でも、静かに目を引く。 暮らしの中にあるものを、ちゃんと見ようとしている写真だと思った。 朝倉さんの撮るものは、そういう感じがする。 通り過ぎてしまいそうなものを、無理に飾らずに見せてくれる。 私はチラシの端を指でなぞった。 楽しみにしている。 その言葉を、心の中で言ってみる。 前なら、すぐに打ち消していたかもしれない。 楽しみにしすぎると、期待しているみたいで恥ずかしい。 誰かに会えるかもしれないことを嬉しいと思うのは、まだ早い。 そうやって、自分の気持ちに先回りして蓋をしていた。 でも今は、少し違う。 楽しみなら、楽しみでいい。 会えたら嬉しいなら、嬉しいでいい。 その気持ちが誰かを困らせるわけではない。 私が私の中に持っているだけなら、誰の負担にもならない。◇ 翌日の昼休み、森下さんが私の席に来た。「藤崎さん、今週末ですよね」「何が?」 聞き返してから、少しだけ目をそらした。 森下さんはにこっと笑う。「展示です」「あ……うん」「
来月の展示まで、まだ少し日があった。 それでも私は、時々カレンダーを開いて予定を確認していた。『器と写真展』 その文字を見るたびに、胸の中に小さな灯りがともる。 誰かとの約束ではない。 朝倉さんと会う約束をしたわけでもない。 けれど、私が楽しみにしている予定だった。 そのことが、今は大切だった。 以前の私は、予定を入れる時、まず誰かの都合を考えていた。 悠斗の帰宅時間。 食事の準備。 週末の買い物。 洗濯のタイミング。 それらを避けるように、自分の予定を端へ寄せていた。 行きたい場所があっても、あとでいいと思った。 読みたい本があっても、時間ができたらと思った。 その「あとで」は、なかなか来なかった。 今は違う。 私はカレンダーに、自分のための予定を入れる。 書店。 喫茶店。 森下さんが来る日。 花瓶を探す日。 そして、器と写真展。 どれも小さな予定だけれど、私の生活を少しずつ前へ動かしている。◇ 仕事帰り、私は書店に寄った。 展示までまだ日があるせいか、掲示板のチラシは前と同じ場所に貼られていた。 私はその前で足を止める。『小さな器と暮らしの写真展』 白地に、淡い影の落ちた器の写真。 テーブルの端。 湯気の立つカップ。 窓から入る光。 朝倉さんの写真なのか、器の作家さんの写真なのか、そこまでは分からない。 でも、そのチラシを見ると、自分の丸いテーブルを思い出した。 白い器。 欠けたグレーのマグカップ。 木のトレイ。 水色の花瓶。 ひとつひとつを選ぶことが、最近の私には少し楽しい。 器なんて、使えればいいと思ってい
月曜日の昼休み、私は佐伯さんと千尋に囲まれていた。 いつものカフェの窓際席。 私の前には紅茶。 佐伯さんの前にはアイスコーヒー。 千尋の前には、なぜか大きめのサンドイッチがある。「で、花瓶監査見習いの報告は?」 佐伯さんが開口一番に言った。 私は思わず笑った。「本当に聞くんですね」「当たり前でしょ。こちらは本部だから」「本部だったんですか」「知らないうちに組織化してる」 千尋がサンドイッチを持ったまま真顔で頷いた。「段ボール王国の文化財保護部門も兼任しております」「誰が任命したの」「王国の空気」「雑」 私が笑うと、佐伯さんも少し口元を緩めた。「森下ちゃん、どうだった?」「すごく喜んでくれました」「部屋を?」「はい。花瓶も、カーテンも、クラゲも」「クラゲも監査対象なの?」 千尋が興味津々で身を乗り出す。「森下さんは、クラゲちゃんって呼んでました」「昇格してる」「何に?」「住民票を得た」「クラゲに住民票」 くだらない話なのに、胸が軽くなる。 私は紅茶を一口飲んだ。 月曜日の昼休み。 仕事の合間。 それなのに、私の部屋の話をしている。 誰かの帰りを待っていた頃には、こんなふうに自分の生活を外へ話す時間があまりなかった。 話すことは、悠斗のことや家の段取りや、仕事の進捗ばかりだった気がする。 今は違う。 私の部屋に花瓶がある。 友人が来た。 それを、こうして話せる。◇◇◇◇「森下さんに言われたんです」 私はカップを置いた。「全部ちゃんとやろうとしなくていいって、前に私が言った言葉が、今の私に
その日から私は少しだけ悠斗のスマホが気になるようになった。 別に見るつもりはない。 そんなことしたくないし、したら終わりだと思う。 でも。 通知が鳴るたび、無意識に視線が向いてしまう。 悠斗が笑うたび、胸の奥がざわつく。 自分でも嫌だった。 こんなの重い彼女みたいじゃない。
私はスマホの画面を見つめたまま固まっていた。『今日はありがとうございました!またみんなで飲みたいです!』 送信者は、『秋山 美咲』。 知らない名前だった。 でも、悠斗のスマホに届いた通知ではない。 私のスマホだ。 私はゆっくり画面を開く。 どうやらメッセージアプリの「知り合いかも」の
翌日の朝、私は少し寝坊した。 目を覚ますと時計は七時十分を指している。「……やば」 慌てて起き上がる。 いつもならもう朝食を作り始めている時間だった。 私は急いでキッチンへ向かう。 でもそこには思っていた光景がなかった。 悠斗が一人でコーヒーを淹れていた。
写真を閉じたあとも胸のざわつきは消えなかった。 私はソファに座ったまま、ぼんやりスマホを握りしめる。 居酒屋の明るい照明。 楽しそうな笑い声が聞こえてきそうな写真。 その端に映っていた悠斗。 私の前で見せる顔とは少し違って見えた。 なんでだろう。 笑っていただけなのに。